22世紀吉野桜を愛でる会

吉野桜について

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吉野桜の歴史

役小角が桜に刻んだ蔵王権現像
献木のはじまり

金峯山寺 本堂・蔵王堂

吉野と桜が最初に出会うのは、今から約千三百年前。役小角の時代から桜は蔵王権現を供養する「ご神木」とされるようになり、献木されるようになったという言い伝えがあるのです。しかし吉野のことを数多く歌っている「万葉集」には、桜の吉野山が出てきません。吉野山に桜が咲くようになるのは、奈良時代に入ってからです。吉野山は、奈良時代の終わりには桜の山となっており、又それが聖地としての吉野山のイメージを更に印象づける要因かもしれません。

西行法師の愛した吉野

吉野山 西行庵

吉野山の桜が最初に現れるのが、「古今和歌集」で三首の歌が登場します。しかしなんといっても、「吉野山」と「桜」の関係を決定づけた人物は、西行法師です。西行は、非常に霊山吉野山に咲くサクラの美しさにひかれたのでした。そのため三年もの間吉野に住み、奥の千本辺りに庵まで結びました。
西行が吉野を歌ったのが五十首以上あるとされています。その歌が又吉野山の桜のイメージアップにも繋がったとも言えます。その後この西行に憧れ、芭蕉・蕪村・良寛などがこの吉野を訪れたのは説明するまでもありません。

秀吉の花見・・・戦国のスターが集結

吉野山での桜のイベントで最も規模が大きく、その後の語り種となっているのが、太閤秀吉の吉野山での花見です。吉野山滞在中に詠んだ歌が次の歌です。

  • とし月を心にかけし吉野山 花野盛りを今日見つるかな 太閤秀吉
  • いつかはと思ひ入りにしみ吉野の 吉野の花を今日こそは見れ 関白秀次
  • 君が代は千年の春も吉野山 花にちぎりの限りあらじな 徳川家康
  • 千早振る神の恵みにかなひてぞ 今日み吉野の花を見るかな 前田利家
  • 君がため吉野の山のまきの葉の 常盤に花も色やそはまし 伊達政宗

次の日には蔵王堂の庭で能楽を催し、秀吉自らも吉野詣でを演じたといいます。

22世紀の吉野の桜へ

江戸幕府が崩壊し吉野山を訪れる人もなくなり、桜の木も伐採の危機が訪れますが、なんとか桜の伐採という受難は免れました。再び昭和でピンチの時代を迎えますが、この時も難儀を逃れることができたのです。
今も様々な自然災害や経済の変化によって吉野の桜は影響を受けていますが、何とかやってきました。考えてみると、吉野山の桜は過去何回か受難を受けるのですが、必ずと言ってよいほど神風(外の力)が吹いて助けられます。今も多分その受難にさしかかっている時期なのかもしれません。

年中行事

蔵王堂鬼火の祭典

「福は内、鬼も内」と唱え、全国から追われてきた鬼を迎え入れます。経典の功徳や法力によって、また信徒らが撒く豆によって、荒れ狂う鬼たちを仏道に入らしめて終わります。(毎年2月3日)

蔵王堂花供会式

正式には花供懺法会といい、吉野山の桜が最も見ごろとなる4月の時期に、吉野山の桜を金峯山寺の本尊・蔵王権現にお供えするという春の吉野山が最も賑わう行事です。(毎年4月10日〜12日)

蔵王堂蛙飛び

蛙飛びは蓮の花を蔵王権現に供える蓮華会の行事の一環として行われるものです。大きな蛙が外陣に現れ受戒導師の前に出てかしこまり、法力によって人間に立ち返る法要が始まります。(毎年7月7日)

写真/高橋 良典

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