吉野桜について

吉野桜について

吉野桜の歴史

役小角が桜に刻んだ蔵王権現像・・・献木のはじまり

吉野と桜が最初に出会うのは、今から約千三百年前。当時の律令制度のため苦しんでいる民衆を救済しようとする役小角(役行者)が、最後の難行苦行の行場を金峯山上に見いだし、千日にわたって祈請したところ、最初は慈悲円満相の釈迦如来が現れ、千手観音や弥勒菩薩が次々現れたといいます。

しかし、これらの優しい神々では人々を救われないと思い、尚も祈り続けていると、岩山が揺れ動きものすごい雷鳴と稲光の瞬間、岩の間から火焔を背負った憤怒の姿いかめしい金剛蔵王権現が現れました。

小角はこの尊像こそが民衆を救うものだとして、たまたま傍らに合った桜の木に刻んだとされます。

それ以来吉野では、桜は蔵王権現を供養する「ご神木」とされるようになり、献木されるようになったという言い伝えがあるのです。

しかし吉野のことを数多く歌っている「万葉集」には、桜の吉野山が出てきません。この頃の吉野山には余り桜はなかったようです。吉野山に桜が咲くようになるのは、奈良時代に入ってからです。7世紀も終わりになると、飛鳥京・藤原京・平城京と相次ぐ遷都という大規模な公共工事が行われました。
その結果吉野を含む大和一円の常緑広葉樹や、針葉樹が建築材として伐採され、その後赤松と山桜の二次林が形成されるのが奈良時代だというのです。
吉野山は、奈良時代の終わりには桜の山となっており、又それが聖地としての吉野山のイメージを更に印象づける要因になったのかもしれません。

金峯山寺 本堂・蔵王堂(桜)

金峯山寺 本堂・蔵王堂(雪)

西行法師の愛した吉野

吉野山の桜が最初に現れるのが、「古今和歌集」で三首の歌が登場します。しかしなんといっても、「吉野山」と「桜」の関係を決定づけた人物は、西行法師です。

彼は平安末期の1118年に京都に生まれ、もともと鳥羽院に仕える北面の武士で、俗名を佐藤義清といい二十三歳で突如出家し西行と名乗ったといいます。世俗を離れた西行は、当時霊山でもあった吉野山を訪れます。又当時の吉野山は歌枕であり、桜の名所でもありました。

どちらが最初の目的かはわかりませんが、西行は、非常に霊山吉野山に咲くサクラの美しさにひかれるのでした。そのため三年もの間吉野に住み、奥の千本辺りに庵まで結びました。

西行が吉野を歌ったのが五十首以上あるとされています。その歌が又吉野山の桜のイメージアップにも繋がったとも言えます。その後この西行に憧れ、芭蕉・蕪村・良寛などがこの吉野を訪れたのは言うまでもありません。

西行庵(紅葉)
西行庵(雪)